平泉の文化遺産


中尊寺 金色堂

平泉の文化遺産は、奥州藤原氏四代(清衡、基衡、秀衡、泰衡)が平安時代末期の約100年にわたり、 都の文化を受容しながら、独自に発展させた中尊寺や毛越寺(もうつうじ)などの仏教寺や庭園、史跡群です。

日本の古代から中世への過渡期における地方文化の中で傑出し事例で、周辺の自然景観と一体となったその文化的景観は、 世界でも類例のない貴重な遺産として評価されています。




紅葉の中尊寺・経蔵


平泉には藤原氏の治世のもと、有名な中尊寺や毛越寺などが建立され、清衡から藤原泰衡の4代にわたっての 奥州藤原氏の本拠地として栄華を極めましたが、三代・秀衡が源義経をかくまった事で、四代・泰衡の時代に 源頼朝の追討を受け、100年余りで奥州藤原氏は滅亡してしまいました。

初代・清衡は平泉に中尊寺を建立し戦いで命を失った人たちの霊を敵味方の区別なく極楽浄土へ導き、争いのない平和な国を 築こうとしました。この思想は二代・基衡の毛越寺、三代・秀衡の無量光院という形で受け継がれました。 最も繁栄した三代・秀衡の時代には人口5万とも10万とも言われ当時の京都と肩を並べる規模であったと言われています。 源頼朝に滅ぼされるまでの100年間、平和な世の中を実現させたかつての都の姿は、浄土思想を具現化した文化的景観として、 今も平泉の地で守り伝えられています。




毛越寺(もうつうじ) 浄土庭園

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古都平泉は多くの文人たちにも愛されました。

松尾芭蕉による紀行文集『おくのほそ道』では、奥州藤原氏の当時繁栄を極めた居館の あった場所が、田野となっている有様を見て詠んだ句 「夏草や 兵どもが 夢の跡」や、 金色堂においての「五月雨の降り残してや 光堂」などの句を残しています。

〜松尾芭蕉 江戸時代前期の俳諧師〜
1689年5月16日に江戸を出発し、東北、北陸を巡り岐阜の大垣まで旅した紀行文『おくのほそ道』が有名。 松尾芭蕉は、西行の亡くなった1190年から数えて没「五百忌」にあわせて、西行が平泉へ 向かったと同じ行程を歩きました。中尊寺境内には、芭蕉の銅像が設置してあります。




毛越寺(もうつうじ) 常行堂
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中尊寺

中尊寺は天台宗の東北大本山で、山号を関山(かんざん)といいます。 850年に慈覚大師によって開山され、その後、奥州藤原氏の初代清衡 が、多くの堂棟を造営しました。14世紀には堂棟は焼失してしまいましたが、 金色堂をはじめ、3,000点を越す国宝や重要文化財を伝える東北の古刹です。

国宝の金色堂は、1124年の造営で、初代清衡が建てたお堂の中で唯一現存するものです。 金ぱくや螺鈿(らでん)によって装飾された阿弥陀堂で、中央の須弥壇(しゅみだん)の中には 初代清衡、二代基衡、三代秀衡のご遺体と四代泰衡の首級が納められています。

毛越寺(もうつうじ)

毛越寺は中尊寺と同じく、850年に慈覚大師によって開山され、その後、藤原氏二代基衡が造営に着手し、 三代秀衡の時に完成しました。度重なる災禍に当時の伽藍は焼失してしまいましたが、大泉が池(おおいずみがいけ)を 中心とする浄土庭園はほぼ完全に保存されています。



平泉中心部マップ(拡大できます。)


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